前編:みかんの歴史 いつからミカンは我々の食卓にあるのか?
和歌山みかんを語る上で必ず出てくる偉人として知られる紀伊国屋文左衛門。
大事な祭りにあわせて送るミカンが天候によって届けられなかった時に
彼は命を賭して江戸にみかんを運んだことをきっかけに
大きな財を成したことで知られています。
また、彼のようにみかんを運ぶことを生業としていた人は他にもたくさんいました。
伊藤農園の創業者や、後述する滝川原藤兵衛などです。
このようにみかんと和歌山のつながりはとても深く、その歴史は実はとても古く、遡れば古代まで!なんです。
よく考えたら、今食卓に普通に並んでいるミカンは、昔からあったわけではなく、
紆余曲折、交配を繰り返し、あるいは偶発的に生まれ、種類が広がっていきました。
でも、もともとはどんな成り立ちだったのか?
意外と知らない人も多いのでは?
そこで今回はそのみかんの歴史を掘り下げていき、現在の姿になるまでをご紹介します。
柑橘類が登場するもっとも古い有名な文献としてはあの『古事記』があります。
学校で歴史の勉強をすると必ず出てきますね。
新羅国(シラギ)の子孫で但馬の国出石(現在の兵庫県豊岡市)に住んでいた、
田道間守(たじまもり)という人が病気静養の垂仁(すいにん)天皇の勅命により、
延命長寿の効果があるといわれる非時香菓を手に入れるため常世国に旅立ったといわれています。
しかし、旅立ってから10年の年月が経ち、天皇は手にする前に崩御。
田道間守は手に入れた橘の木の半分を皇后に
献上し、半分を垂仁天皇の御陵に捧げ、その場で泣き叫びながら息絶えたといいます。
このとき持ち帰ったのが、橘という柑橘類です。
垂仁天皇の御陵とされる奈良市の宝来山(ほうらいやま)古墳のお堀にある小さな島が田道間守命の墓と伝えられています。
田道間守の死後、彼が持ち帰った橘が熊野街道沿いの下津町橘本
(旧海草郡加茂村、現在の和歌山県海南市下津町橘本)
「橘本神社」近くの六本樹の丘に植えられ、彼はここに祀られています。
田道間守の植えた「橘」が紀州蜜柑の始まりであるとされており、
田道間守は”みかんの神様””お菓子の神様”として今も崇拝されています。
植えられた橘があちこちに渡り始め、室町時代になる1000年後には、野生のミカンとして
和歌山の至るところに自生していたと思われます。
橘は今食べてみると酸っぱいですが、名前の通り、清々しい香りがすることで、
多くの人の心を豊かにしてきたのかなと思います。
そして本格的に人々の手に渡るようになったきっかけは、熊野参詣という山岳信仰がきっかけでした。
言うまでもなく、世界遺産、熊野古道の舞台です。
山岳信仰は山岳仏教とも言われ、平安時代に仏教の一派である密教において行われるようになった、
山岳での修行を重視する仏教です。
当時政治と結びつきの強くなった奈良仏教の世俗化などに反発するかたちで始まりましたが、
日本古来の山岳信仰とも融合し、急速に発達していくこととなりました。
その後唐で修行を積んだ最澄や空海によって、天台宗・真言宗が起こされたのは有名な話です。
当初は一部の人による修行をする場所としての認識であった熊野信仰が一般に知られるきっかけを作ったのが、
院政を始めた白河上皇です。
白河上皇は白河天皇のころから通算で12回も熊野を詣でています。
センセーショナルな実権の握り方をし、世間を掌握していた時の人が何度も訪れたとなれば、
一般の人にもそれが知れ渡るのも今と同じで、熊野信仰と熊野参詣は一気に盛り上がりを見せます。
その後、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇も熊野に参詣しています。
ここから熊野参詣は大ブームを迎え、
貴族だけでなく武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになり、
その行列が「蟻の熊野詣」とまでいわれるほど、凄まじいほどの参拝者の大群であったといいます。
わざわざ苦行難行として、神社をめざすという姿は、
現在の登山や、自転車で日本一周みたいなもののように、
1000年経った今でも変わらないんですね。
熊野参詣のルートは様々であったといいます。
その熊野参詣の人たちの都への土産品として、室町時代後期ころから重宝されていたのが、
有田みかんのルーツといわれています。
糸我社由緒によると、永享年間(1429年~1440年)市内糸我町の神田池に橘が一本自然に生えており、
年々実を結び、これが蜜のような味であったことから蜜柑と名付け、他の地方へも広がっていった。
とあります。
有田市はみかんと初めて名付けられた由緒ある地なのです!
ちなみに、永享というと、この時代の天皇は後花園天皇で、
時代は室町幕府。時の将軍は足利義教。
熊野参詣ブームの真っ只中です。
北海道の白い恋人や、東京ばななのように、当時はお土産の定番だったのかも知れませんね。
ちなみに、この神田池の場所を調べると…。
このように、熊野街道のちょうど真ん中あたり!
ちなみに、伊藤農園もこの神田池からすぐ近くにあります。
長く苦しい道のりの間に、自生するミカンがあって、それがお土産として
売られ、品種は変わりつつもそれが今でも文化として残っているということは
とても感慨深いものがあります。
その後熊野参詣ブームは戦国時代にかけて衰退していきます。
理由は諸説あり、ハッキリした理由は解明されていません。
紀州蜜柑伝来記によると、天正2年(1574年)伊藤孫右衛門という糸我地域の在地領主が肥後八代(現在の熊本県八代郡)より小みかんの苗木を持ち帰り、
栽培を始めたといわれています。
戦国時代を過ぎ、徳川家が幕府を開いたあと、このみかんに再び着目したのが、初代紀州藩主の徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)という人物です。
あまり知られていませんが、この人がなかなかの人なんです。
せっかくなので、この徳川 頼宣を少し掘り下げたいと思いますが…
というわけで、今回はここまで。
次回はこの徳川よりのぶについてもう少し掘り下げていき、
今の有田みかんになる変遷を説明したいと思います。